정토교와 기독교

 キリスト教と浄土教が出会うのは、今が初めてではありません。中国でも多少接触はありました。日本でキリシタン時代にどれくらいの交渉があったかよくわかりませんが、ただ、そのときから、カトリッグの宣教師が、ヨーロッパへの手紙の中に「浄土真宗というものはプロテスタントとそっくりで、両方ともきっと同じ悪魔のわざだ」と書いていることが思い出されます。
 それから明治維新以来、浄土教とキリスト教とが再び交渉しましたが、ごく最近まで、お互いに自分の宗教を無条件に絶対視する立場から、相手を邪教として軽蔑したり、恐れたりしてきました。そういう条件のもとでは、交渉するといっても、本当の意味での「出会い」にはならないし、お互いのことをどんなに研究しても、本当に理解し合う方法とはならないことは言うまでもありません。
 当時の文献の中のお互いに関する発言を読んでみてすぐ明らかになるのは、そういう命題が相手を理解しようとする努力の結果であるどころか、相手に対して護教的に自分のアイデンティティを立て、相手の教えをたたき台として、自分の側の伝統の教理の優位を断定しているものであるにすぎないと言わざるを得ないことです。
 それに対して、相手の本当の理解を目指し、宗教のレベルで本当の意味での人間的出会いを願望する我々にはどういう精神的態度が要求されるでしょうか。それは一言で言えば、「今度こそ我々は自分の独自性を相手との共通性の上に立ててみたい」ということかもしれません。

―ヤン・ヴァン・ブラフト「オリエンテーション」より

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